「勝つための観察眼」を教えてくれた偉大なプロのお話【ドラゴン広石『青春と思い出のパチスロと、しばしばパチンコ』第35話:パチスロの師匠】
第35話 パチスロの師匠
パチンコ&パチスロには「運命的な出会い」があります。たとえば既存の価値観を変えてしまうほど素晴らしい機種に遭遇したり、プレイヤーとして覚醒するきっかけとなる貴重な人間関係を構築したり…。何を重要視するかは人それぞれでしょうが、私の場合は後にパチスロの師匠と仰ぐ「弁当屋ギョロさん」との知遇を得たことが、振り返ればパチスロ人生のスタートラインだったように思います。
そんなわけで、今回は私の師匠についての昔語りです。
我が師匠・弁当屋ギョロさんは、その名の通り「弁当屋」の店主でした。朝は早くから弁当や惣菜の仕込みを行い、弁当屋の開店準備が万端整ったら、店を奥さんと娘さんにまかせて自分はホールへと向かう…そんなロクデナシだったんですけど、スロプロとしての腕は確かで、私はいろいろと勉強させて頂きました。
かの伝説のパチプロ・田山幸憲さんにも「不敗のノッポ」というパチンコの師匠が居たということですが、当時は現在のように機種に関する情報公開などされておらず、知らない機種を打つ場合には全てが手探りでしたから、効率よく勝とうとするなら、各種情報に精通した攻略グループに属すか、もしくは経験から勝ち方を身につけたプロの教えを請うしかなかったんですよ。そして、ギョロさんはピンで稼ぐジグマプロでした。
ギョロさんの何が凄いかって、類い稀な観察眼です。私がギョロさんに初めて会ったのは昭和62年の春、場所は大分県の別府市に前年に新規オープンしたL店でした。
当時、私は就職浪人みたいな感じで無職を満喫してたんですが、L店は新規オープンから日が浅いこともあって、おそらくは設定状況も良かったのでしょう。これと決めた台(基本的に高設定の据え置き狙い)を朝から閉店まで打ち切ることで、私は月に20万~30万くらいのシノギになってました。
打っていたのは東京パブコの1号機『アーリーバード』。私は目押しが出来ること以外に何の取り柄もないのに(当時の客層は目押しが下手な初心者が圧倒的多数を占めていました)、こんな簡単に稼げるんだったら、このまま就職なんてしなくてもいいや…そんな勘違いをするほど楽しい毎日でした。
店側が本気になった回収営業は「強烈」
だけどね、目押しが上手いだけで勝てる期間なんて長く続きません。客寄せの種を撒き終えて稲穂が実ったら、次に来るのは言うまでもなく刈り取りです。いやはや、店側が本気になった回収営業は「強烈」の一言に尽きます。4月、5月、6月と順調に勝ち続けていたのが、7月に入って勝率&勝ち額が大幅に低下。負け越しこそしないものの、月のトータル勝ち金が7万チョイにまでダウンすると、そりゃあ勘違いにも気づくってものですよ。そうか、自分が勝っていたのは運が良かっただけなのか…。
L店の営業形態は「7枚交換・無制限」。当時の別府市においては極めてスタンダードな営業形態でした。現在の感覚だとかなりキツそうなルールに思えますが、交換ギャップは高設定の多投により相殺されるし、何より無制限営業の恩恵は考える以上に大きく、だからこそ自分は6月までヒラ打ちで稼げてたのよね。
しかし、今じゃおそらく低設定の専有率が圧倒的に増えてしまい、さらに設定変更のパターンまで変えられた以上、運だけ番長の自分には完全にお手上げです。
こりゃあ、この店をネグラにしている他のプロたちも大変だろうなぁ…。
そう思ったんですけどね。意外なことにギョロさんは毎日のように、閉店時に涼しい顔をして大量の特殊景品を抱えています。いったい、どうやって勝ってるんだろう?
いや、同じ店内にいて同じシマで長時間打ってるんだから、当然のことながらギョロさんがどんな立ち回りをしているのか見て知ってます。ギョロさんの得意戦略は、いわゆるハイエナ。そう、天井に近い台を拾い歩く戦法です。当時のL店は短時間なら掛け持ち遊技も許されていたため、勝負台(高設定台)を確保したまま、空き台を回して天井ボーナスを抜き逃げする行為も黙認されてました。
しかし、この頃は今と違ってゲーム数カウンターはおろか、大当り回数表示すらなく(店によっては大当りのたびに札をめくる手動式の回数表示はあった)、どうやって天井に近い台を見抜いているのかわかりません。これはギョロさん本人に聞いてみるしかないと考えました。
自分がL店に通い始めて約4ヶ月。ギョロさんとはそれなりに顔見知りになり、挨拶を交わす程度には親しくなっています。だけども、いきなり立ち回りを尋ねたところで、素直に教えてくれるとは思えません。
そこで、その日からギョロさんとより親しくなることに心血を注ぎました。ギョロさんだって必勝無敗の完璧超人じゃありませんから、日によっては運悪く負けてしまったり、渡り歩く台が見つからず休憩所の椅子に座ってシマを眺めていることだってあります。
そんな時、昼飯に誘ってみたり(普段のギョロさんは仕事中に飯を食わない。そんな暇があったら回せ…という考えだった)、たまに缶コーヒーを差し入れたりもしました。
あと、ギョロさんは弁当屋の開店準備などで朝イチから来られないため(いつも昼前に来店するのが日課だった)、今日のモーニング台がどれだったか等の情報を提供し(モーニング台は低設定というのが定番につき勝負台の候補から除外できる)、協力関係をアピールしたんです。
そして、閉店後に屋台で一杯やった時、初めてハイエナの真髄を訊ねてみたんです。ハイエナに失敗しないためのコツ…というか極意を。
ギョロさんの返答は衝撃的でした。
当時は台間サンドなんていう便利なアイテムはなく、コインを借りる際には誰もが例外なくシマの端にあるメダル貸し機まで往復してましたから、それを正確にチェックするだけでいいという理屈はわかります。だけど、それじゃあパチスロを打っていて楽しくも何ともないんじゃね?
「プロの仕事に楽しさは不要や!」
そうばっさりと切り捨てられました。なるほどね、ギョロさんは正真正銘の職業プロというわけだ。パチスロが好きで好きで、とにかく楽しく打とうとしている自分とは覚悟が違うみたいです。
そういえば、ギョロさんは目押しができない人でした。目押しができずに勝ち続けるっていうのも凄いけど、前述したようにアーリーバードには当倍返しがあるから、ボーナス成立後のコインロスも思うほどには大きくない。そして、その損失分をハイエナで補っているから、店の状況が以前に比べて渋くなっても、さほどトータルの収支には影響しなかったわけだね。
正直、自分にはギョロさんの立ち回りは真似できないと思いました。いや、真似しようとしても私は小心者ですから、自分の台を押さえつつ掛け持ち遊技で天井を狙う…なんて立ち回りは怖くてできませんわな。
結局、ギョロさんからは「プロとしての覚悟」と「勝つための観察眼」を教わっただけですけど、それがいかに大切なことだったかは説明するまでもありません。
その後、アーリーバードは基板改修により1.5号機の「ニューポート」となり、2号機時代になるとギョロさんはL店から姿を消しました。風の噂によると、遠くの町に家業の弁当屋ごと引っ越して、1日に羽根モノを1台止めるのを日課としているとのこと。
以来、顔を合わせることもないまま約35年が経過しましたが、師匠には今も現役でジャグラーでも打ちながらブドウをカウントしていて欲しい…と願ってやまないのです。