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【ドラゴン広石『青春と思い出のパチスロと、しばしばパチンコ』第101話:私がパチスロ必勝ガイドに入るまで~後編】

ドラゴン広石コラム『青春と思い出のパチスロと、しばしばパチンコ』
ドラゴン広石コラム『青春と思い出のパチスロと、しばしばパチンコ』

第101話 私がパチスロ必勝ガイドに入るまで~後編

前編より続く)

 平成7年(1995年)の9月にカバン一つ抱えて白夜書房ビルを訪ねた私でしたが、パチンコ必勝ガイドに掲載していた「ライター募集広告」はダミーで、実際には募集してないと知って私は呆然としました。しかし、面接のお礼を述べて退席しようとした私に対し、大崎さんは救いの手を差し伸べてくれたんです。

「そんなに慌てないで。さっき見せて貰ったデータ帳にはパチスロの実戦データも含まれていたけど、パチンコと同じくらいの熱意でパチスロと向き合えるなら、パチスロ必勝ガイド編集部を紹介してもいいですよ」

データ帳に記されていた『リノ』(ニイガタ電子の3号機)の実戦データ。この店のリノはいわゆる「コイン落ち連チャンver.」で、ビッグ後の4G以内(1G増やし打法を実践すれば5Gに延長)に小役が揃ってヒットゾーンを直撃すれば、次ゲームのコインを投入した瞬間にビッグフラグが成立する裏モノだった。表記は「7」がビッグ、7の右横に小さな丸が付けられているのはコイン落ち連チャンを示し、「B」はレギュラーボーナスを意味している(BARの略)。これらの手帳は引っ越し等により大半が散逸したが、今でも手元に数冊が残っている。
データ帳に記されていた『リノ』(ニイガタ電子の3号機)の実戦データ。この店のリノはいわゆる「コイン落ち連チャンver.」で、ビッグ後の4G以内(1G増やし打法を実践すれば5Gに延長)に小役が揃ってヒットゾーンを直撃すれば、次ゲームのコインを投入した瞬間にビッグフラグが成立する裏モノだった。表記は「7」がビッグ、7の右横に小さな丸が付けられているのはコイン落ち連チャンを示し、「B」はレギュラーボーナスを意味している(BARの略)。これらの手帳は引っ越し等により大半が散逸したが、今でも手元に数冊が残っている。

 捨てる神あれば拾う神あり。まさにそんな心境でした。そんなわけで、大崎さんのご厚意でパチスロ編集部を紹介して頂いたところ、じゃあこれからすぐに面接しましょう…という感じでとんとん拍子に話が進みました。

 そして、会議室から大崎さんが退席してから十数分後、パチスロ必勝ガイドのスタッフが入室しました。もちろん、皆さんの名前は存じ上げています。パチスロ必勝ガイドの副編集長であるキラー吉良さん、実質的にパチスロ必勝ガイドを取り仕切っているシモデッチ下出さん、それからグレハニスト内池さん(現・沖ヒカルさん)の3名です。

 この頃は、スロガイの副編集長だったルーキー酒井さん、ライター兼デザイナーのハトポッポ小泉さん、モヒカン頭がトレードマークのセブン先生、データ取り精鋭軍団・ショッカー1号のどばどば浩二さん、13時間デスマッチの秋山プロ、名物編集のルーシー石橋女史などが相次いでパチスロ必勝ガイドを去った直後につき、どっちかっていうとパチンコ編集部よりパチスロ編集部の方が人手不足で困っていたらしいです。

 そんな状況でどうしてパチスロ編集部がライター募集広告を出してなかったのか不思議ですが、もしかすると募集広告をすっ飛ばすほどの重大スクープがあったのかも知れませんね。

 ちなみに、シモデッチさんが実質的にパチスロ必勝ガイドを取り仕切っていた理由は、副編集長としてパチンコ編集部から移動してきた吉良さんが、当時はまだ「パチンコ一番」という月刊誌の副編集長を兼務していたからです。

 つまり、この頃のパチスロ必勝ガイドはキラー吉良さん(現・編集局長)とシモデッチ下出さん、グレハニスト内池さん(後に副編集長)、ダライラマ片岡さん(現・編集部長)、新人編集のジョプリン岩佐さん(浮草家計簿の担当にして現在はフリー編集)、モグモガーういちさん(現・ういちさん)の6人でガイドを制作していたんですな。

 話が横道に逸れたので元に戻します。本来ならば採用面接の場では、どういう理由で弊社を志望したのか…とか、ライターになったら何をしたいですか…といった通り一遍の定型句のような質問から入るものだと思いますが、すでに大崎さんから「パチンコ必勝ガイドのライターになろうと上京してきた」ことが告げられていたらしく、採用を前提に私の人となりを見極める面接だったらしいです。

 というのも、この時、大崎さんは吉良さんに「パチスロ編集部が採用しないなら俺が使うから、無下に追い返したりは絶対にするな」と釘を刺していたそうな(大崎さんと吉良さんは早稲田大学の同期で、同じプロ集団に属していたこともある「気の置けない間柄」だと聞きます)。

 これは数年後の忘年会で重鎮ライターのラーメン小池さんに教えて頂いた裏話なのですが、まさか大崎さんが私をそんなに買ってくれていたとは思いもしませんでした。いやはや、人の世の情けが身に染みますね。いや、ホント。

■ついに「ドラゴン広石」が誕生

 そして、この面接はシモデッチさんが「週明けに僕が担当している新機種のデータ取りがあるんですけど、時間を取れるならご一緒しませんか?」と切り出したことで、データ取りが採用試験になる…という方向性が決まったようです。この時のエピソードは当コラムの第63話で詳しく紹介しているので、そちらも読んで頂ければ幸いです。

今はなきパル工業の4号機『パワーボム』。スタートレバーのハーネスに仕込まれた専用パーツが大当り乱数を狙い撃つことで連チャンとハマリを演出しており、「C-51SP」から始まる同社の異絵柄同配列機は「バンバンバージョン」と呼ばれて裏モノ好きのプレイヤーに愛された。後に裏モノ化にメーカー自身が関与していたことが発覚し、前述の2機種を含む「ビガー」「V10」「パワーゴリラ」「キングアロー」の6兄弟は検定取消処分を受けることになる。これによりパチスロ製造・販売の事業継続を断念したパル工業は、惜しまれつつも解散した。(写真は「パチスロ大図鑑1964~2000/ガイドワークス刊」より)
今はなきパル工業の4号機『パワーボム』。スタートレバーのハーネスに仕込まれた専用パーツが大当り乱数を狙い撃つことで連チャンとハマリを演出しており、「C-51SP」から始まる同社の異絵柄同配列機は「バンバンバージョン」と呼ばれて裏モノ好きのプレイヤーに愛された。後に裏モノ化にメーカー自身が関与していたことが発覚し、前述の2機種を含む「ビガー」「V10」「パワーゴリラ」「キングアロー」の6兄弟は検定取消処分を受けることになる。これによりパチスロ製造・販売の事業継続を断念したパル工業は、惜しまれつつも解散した。(写真は「パチスロ大図鑑1964~2000/ガイドワークス刊」より)

 実戦終了後、渋谷のカプセルホテルに宿泊して実戦データをまとめ、翌日にパチスロ必勝ガイド編集部に行きシモデッチさんに提出しました。そして、吉良さんから私をライターとして採用する旨のお言葉を頂戴したことで「ドラゴン広石」が誕生しましたが、編集部内では反対意見もあったみたいです。

 特に内池さんは強く反対したようで(枠上人生が単行本になる際の座談会で内池さん本人から聞きました)、他にも私の年齢(当時のガイド編集部は編集・ライターとも全員が二十代でした)が問題になったとも聞きますが、最終的には吉良さんの意見と大崎さんの口添えにより私は採用されました。

 早いものであれから29年が経過。私は去年還暦を迎え、令和7年はライター生活30年目となる節目の年です。ライターになった当初は「とりあえず4~5年もやれたらいいかな…」程度に考えていたんですが、人生って本当にわからないものですね。

 思えば遠くへ来たもんだ。

ドラゴン広石

ドラゴン広石

ドラゴン広石(昭和38年12月生まれ)
平成7年に白夜書房「パチンコ必勝ガイド」編集部の門を叩き、パチスロの知識と経験、目押し力を買われて「パチスロ必勝ガイド」のライターに採用された。リアルタイムで「パチスロ0号機」を遊技した経験を持つ、唯一のパチスロライターである。令和4年現在でライター歴は27年。代表作に「枠上人生」、「浮草家計簿」(連載中)、「回胴絶景」(連載中)など。1日の最大勝ち額~プラス41万3千円(クラブロデオT)、1日の最大負け額~マイナス12万9千円(初代・北斗の拳)。

Twitter:@dragon_hiroishi

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